特許庁の帰路、個展最終日ってこともあって、帝国ホテル横から、みゆき通りのガードをくぐって、みゆき通りと外堀通りの交差点の画廊に立ち寄った。
はっきり云って、わたしには、異次元の作品、こころ を揺さぶるものが、なにも、存在しない。化石的な存在となって、老いを痛切に実感させられる。
彼と来週末、個展のできばえを話し合う約束をしている。
なにを、どう、話せば良いのか、けんとうもつかない。
そこで、数軒、離れた数寄屋橋寄りの日動画廊をのぞいてみる。ここは、おりおり、のぞいているので、おおよそ、展示傾向は理解しているつもりで、受付嬢に挨拶して、作品に眼を転じて、あれって、眼が点になってしまった。
一瞬、かたまって、おそるおそる、出展者を確認したら、個々ばらばら、あらためて、受付に戻って受付嬢に確認したら、美大の未来展とのことであった。
時代は、ひと も、感性も、すべてを変革してゆくのだろう。
そもそも、創作は、あるもの全ての否定によって、自らの存在価値をうみだす。
おおくの化石の杜の住民は、ついぞ、化石の杜に棲み着き、そこから、でる勇気を、往々にして、欠く傾向にあるらしい。
(日動画廊のある数寄屋橋は、かって、君の名で、いちやく、著名になった。いま、外堀は埋められ、橋は、欄干の一部を残すだけ、だだっぴろい交差点にすぎなくなってしまっている。)