鳥のように自由にありたい…Free as a bird

桑原特許事務所 - 鳥のように自由にありたい…Free as a bird

思考の論拠 桑原特許事務所

先日、深夜、なにげにTVを観ていたら、ある作家の対談番組に遭遇した。

前後のストーリーのなかの一部なので、はたして、的を射た把握であるのか、疑問なしとしないが、ながら聴く彼の持論のうちに垣間見る、一部に、人間は、すべからく、虚構のただなかに、だから、フィクションのみが、真実を追究しえるゆいいつの手段たりえ、したがって、わたしは、小説によってのみ、これからも、人間をあらゆる角度から探求したいと思うし、読者の皆様も、そうした目線で、ひと、人間、社会、そして、小説、文学、芸術、文化を見直すべきではないか…と…。

たしかに、ひと、とは、そうした存在であり、そうした便法が、手がかりとなるひとつの手法であることは間違いの無い事実なんだろうと思う。
そう、思うのだけれど、それも、また、たんなる、ひとつの便法にすぎないのではと思う。

ひと、は、古来からの習俗、伝承やら社会規範、法規範などの社会の一員として、言葉と行為とによって連帯していると信じている。

ほんとうに、そうなんだろうか。
ひと、は、ある意思をもって、生まれ出でた存在でもなく、ひと固有、というルールで育てられたわけでもなく、ひと固有、のことばによって、習俗、社会規範、法規範、社会的心情を醸成されてきたわけでもなく、ひと、とは、なんぞや、との問えに答えてきたわけでもない。

ひと、は、そもそも、他の個と、まったく異質に存在し、相互に一定のかかわりをもちながら、終生、個として存在しつづけてゆくとしたら、彼の主張するフィクションも、また、当該他人である個の、ひとつの仮説にもとづく真実としての意味合いしかないことになる。

しかしながら、彼の主張は、おそらく、仮にそうであったとしても、かっての純文学などと称される小説でいがかれる誤謬だらけの真実よりは、ひと、にとって、より典型的で、より身近な、よりよい、ひと、の例示を可能にするであろう、との点において妥当性を備えているとの説得力がある。

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