花火の季は秋、そうではあるけれど、花火には、日中の暑さのやや鎮まりゆく夏の夜が似合うような気がする。
ひさしぶりに大川端にでかけ、墨田の花火を満喫した。
墨田の花火には、青春の多くのできごとが重なり合って、おりおりの、悦びと哀しみとが織りなしている。
弾ける花火の音と、かしましい屋台の呼び込みと、群ゆく者達のまとまりのない喧噪と、どこまでも続く屋台の裸電灯と、繰り返し渡りなおす際限の無い橋の記憶、そして、漆黒に、いつも深くしずみ込んだままの墨田の川…ざっぱく…そんな言葉が、かっての青春には、もっとも似合っているのかもしれない。
いま、かいなを、あえて、はすにかまえて、みる。
それが、なにほどの意味があるのか、こころもと無いながらも、あえて、はすに、かいなをかまえてみる。
そこに、なにかを、そう願いながら、漆黒のみなもを凝視する。