俳句はだれしもが作れ、だれしもが楽しめる。
コミュニケーションツールの少なかった時代、多くのひとの嗜みの一つとされていた。
しかしながら、そこに、創作という概念をもちだすと、塗炭の苦しみになる。句座という団欒から、一歩はなれて、作品としての俳句を詠むことになると、愉しみは途端に苦行となる。
至極あたりまえのことながら、作品としての俳句は、詠まれた内容が新規であるか、かりに、新規で無いとしても格別の創作性を備えている必要があり、しかも、作者から放り出された作品が何らの補足なしに他者によって共感される必要がある。
事務所をひらいて間もなくボルテックスチューブに代替えする機械設計に没頭していた設計技師と、おりおり俳句談義をしていた際の彼の俳句と発明の対比考察が、いまも鮮明に想いおこされる。