ひとは、それぞれの、うちなる心象に裏打ちのされた言葉によって、個をたもっているようなところがある。
それがために、ひとは、言葉を共有しながらも、所詮は、ひとり、あえて、いうなれば、個を、この世にほうりだした創造者との対話のうちにしか存在しえないのだろうと、しみじみと感じる。
そうして、沈黙こそが、あるべきかたちなんだろうなぁ~って、強く確信しながらも、なおかつ、饒舌に徹っしようとする。
それが、生活者としての責務なんだろうと確信はしながらも、おりおり、反吐がでそうになることがある。
?ほんとうに、ひとは、さびしいものですね。
なまじ、言葉なんていう、やっかいなものをうみだしてしまった。それも、個々それぞれに、心象の異なる言葉で、それぞれに思惟することによって個を維持している。
?にもかかわらず、ひとは、職で社会に帰属し、恋して所帯をもち、子をなし、家族をなして、なにごとも無げに日々をおくる。
?風にふかれ、その日の風の吹き加減、ただ、ひとり、さすらうが、ひとのならいなれば、ひとは、あまりにも哀しく、さびしい存在、それが、ひとの「業」と、いうならば、その「業」そのものをたのしむべきなんだろう。
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